先日のブログに質問者本人さんより貴重なコメントをいただきました。


 

ファンキーアコです。

 

先日の私のこのブログ記事に、質問者本人さんよりコメントをいただきました。

 

先ほど山に籠る準備をしていたのですが、急いでこれを書き上げてから籠ろうと思います。

 


 

Yoichiさん、ブログを読んでくださって、また、詳細な説明をありがとうございます。

 

Yoichiさんの

 

『突然訪れたカナダでコーヒーも注文できなかったイエローハットのお兄さんが今や、カナダの大学院で言語研究』

 

という興味深い経歴がとても好きです!!

 

バイタリティが溢れていてステキですね!

 

自分、ファンキーと言いながら、ぜんぜんファンキーじゃないじゃん!

 

と思いました(苦笑)。

 

私もがんばらねば!

 

あと、コメントはきつくはなかったですよ。いまだにどうしてあのコメントを削除されたのかの疑問は残ってますが(苦笑)。

 

ただ、やはり最初にYoichiさんのプロフィールを存じ上げるのとそうでないのとでは、若干私の説明の仕方を変化させる必要が出てきたとは思います。

 

英語初心者の方の疑問であればかみ砕いてお話しさせていただく必要がありますし、逆に私よりよくご存じのことであれば、私があえて説明することもないわけですし。

 

その点で先回のブログに失礼があればお許しいただきたいと思います。

 

 

 

ここより少し私がお返事をいただいて思うことを書きますね。

 

まず、

 

 

母語の習得においては、基本的に両親から習うものではない…

 

これに関しては確かに、親が移民の場合など、子どもは親の発音は引き継がず、近い周りの人間(友達など)から一番強く影響を受けるため、親がいくら自分たち(親自身)の発音に苦労していようがお構いなしにネイティブの発音になるというのはそのためですね。

 

それにしても、その言葉が話されている現地で(生まれ)育つというのは、周りの環境に恵まれていますよね。

 

それが

 

母語は第二言語と違い、最低限のインタラクションで習得できると考えられて…

 

という部分にも何らかの影響をしているのかなと私は想像しますが、Yoichiさんにお尋ねするときっと深いお話が聴けそうですね。

 

 

母語習得を基本に第二言語習得を考えるときは注意が必要…

 

この部分に『どうしてかな・・』と非常に後ろ髪を引かれています(苦笑)。

 

 

そして英語脳が非常に主観的な感覚かも知れないということには、私自身はうまく説明できませんが、外国語を習うことが母語を"unlearn"することなのであれば、外国語を流暢に話す(母語のしくみを忘れて、瞬時に外国語のしくみに合わせて文章を組み立てる)ために練習をすること自体が"母語をunlearn"している状態で、それが速くできるようになった状態が『~語脳ができた、~語回路ができた』という状態という意味合いで私は使っていたと。

 

いずれにせよ、

 

練習でできないことをできるようにする→母語のしくみを忘れて外国語のしくみに頭のスイッチを切り換える

 

というニュアンスでした。

 

 

これは今勉強している中国語でもまさにそうで、中国語は英語と文法が似ている部分もあるのですが、違う部分もあって、もちろん日本語ともまた違う部分があるんですが、そのたびに日本語にも英語にも引きずられないように、新しい『しくみ・文法』をインストールするようにしています。

 

 

今膨大な例文をどんどん中国語に訳して行って、語順に慣れるという作業の真っ只中なのですが、これが意識せずにできるようになったとき、私は頭の中で高速で中国語の文章を中国語らしく組み立てられるようになって、中国語が話せるという状態になるはずです。

 

(中国語の文のなりたちを理解しながら行っていますので、単なる『丸暗記』ではありません)

 

その状態がまさに、私が思うところの『中国語回路ができた』という状態で、同じようにできるようになった方の脳もそういうゾーンに入っているし、それがまだできない人、日本語の語順にとらわれて、中国語の語順どおりに文章を組み立てられない人は、『中国語の回路がない』という状態で『アハ!』体験ができていない状態です。

 

 

『アハ!』体験は、その『ゾーン』に入るまで、ある程度以上の蓄積がなされるまで練習をしなければ得られないと私は思います。そのゾーンに入れた人はその程度は(例えば取り扱う話題などで)若干の差があるものの、一応流暢にその言葉を使うことができる段階にあると思います。

 

これはアクティブに言語を使う努力をしないと得られない結果で、例えば例文をいくら丸暗記しても、それを実際に組み立て直して(他の文章の一部と入れ替えたりして)意味の通る言葉にする作業を自分で行なわない限り成しえません。

 

これには慣れないうちはとてもエネルギーを必要とするので疲れますが、そのうち無意識レベルもしくは半自動的に行えるようになります。(この部分でYoichiさんがおっしゃっているこのことと近いと思います)

 

 

でも『アハ!』体験を特に感じることなくできる過程に移行して行く人もいるとも想像します。私自身ももしかしたらそちらのタイプなのかもしれません。今こうして英語学習について発信するためにいろいろと考えたり、自分自身が悩んだ時期を体現化しているからこそ意識するだけで、だんだんできるようになっていることは意外と意識なく過ぎていくものかも知れないとも思うからです。

 

コップから水が溢れるという体験に気づく人もいれば、起こっていても気づかない人もいると思うのです。

 

でもできなかったことができるようになったということ自体が、コップから水が溢れた(変化が実際に起きた)状態であることは紛れもない事実です。

 

 

 

 


 

こちらに関しては

 

 

 

 

最初のうちはできるだけ『この表現にはこの英語』という風に、最小限の表現バリエーションだけを持つことを私も勧められたことがあります。

 

確かに『浅い&使いこなせない表現』を多く覚えても、そういうものがたくさんある中から適切なものを探し出すこと自体に時間がかかってしまい実際使いものになりません。

 

Yoichiさんがおっしゃりかけていた『頻度』がこれと関係するかどうかわかりませんが、やはり自分のすぐに使える表現は、何度も使うことにより体(というより脳に)浸み込んでいて、自信を持ってすぐに使えるものだけなんですよね、本当にアクティブ化されているものだけ。『知っている。見てわかる』は使い物にならない。特に瞬時の会話では。

 

上級になるというのは、使える量も、その質も上がって行くことだと私は考えます。言葉は自分の思考を表すので、いつまでも同じ表現を使いまわしていると(私が実際そうなのですが)飽きてくるというか、自分の無能さにいや気がさしてくるんですね。

 

英語を話しているように見えて、自分はぜんぜん話せていない気がするのもそのせいです。自分の表現に満足できないから。いつも同じ表現の使いまわして、ちっとも新しいものを吸収できていないと感じるから。

 

それで結局新しい言葉を自分から覚えたりと、求めに行きます。意欲がない場合はここで一生ほとんど止まったままです。(むしろ日本でならカンタンに低下することすらあるでしょうね)

 

だから、脳から出すのに時間がかかるほど浅いインプットでは流暢とは言えないですが、上級者になればなるほど、意識的に新しい様々な言葉を自ら使おうと意識的に努力するので、結局はそれが流暢ということに繋がるんじゃないかと想像します。

 

あと、先日のブログでも書きましたが、いろいろな方法で言えるということは、一つの表現で詰まっても別の方法でさっと表現できるという点においても、一つの表現方法しか持っていないよりはやはり便利だと。

 

でもまず何よりも、確実に言える一つを作ることですけどね。

 

流暢性だけで言えば、初心者でもできる限り速く文章をかたちにできれば流暢性が高いと言えると思います。使われている表現のバリエーションは少なくとも、速度を上げることは可能だと。

 

母語を話す子どもがそうですね。少ない語彙と表現力ではあるものの、ときに大人顔負けの瞬発力で話すことができますし、よほどでない場合は何を言いたいのかもわかります。

 

その反対がまさに、我々多くが、英語を長く学んでも瞬発性のある会話ができない・通じないと言う状態なわけですし。

 

 

 

しかし話が前後してしまいますが、大人になると様々な表現をすでに母語で知っているので、いつまでも稚拙な言葉の言い回しでしか自分を表現することができない外国語、というものにはガマンができないというのも真理ではないかと思うのですがこれは個人差があるでしょうかね?(向上心があれば自ら学ぶと言う意味で)

 

だからこそバイリンガルで育った人に、意外と言語によるアイデンティティクライシス(どちらの言葉も母語になりえない)という問題が起こるのか。

 

それともそれはその人の性格にも大きく起因するために、ひとくくりにすることはできないものなのか。(これは当然そうですよね)

 

それとも、実用性のある第二以降外国語というのは、また母語とは違う別の満足度があるとか。(たどたどしくても使いたい衝動にとらわれる。完璧へのハードルが低く、間違っても恥ずかしくないなど)

 

ただ日本人にとってはやはり欧米(とくにアメリカ)に対するコンプレックスからか、受験科目であるためか、英語に対してはより『完璧でなければならない』という意識が強く、それでリラックスして使うことができないということはよく聞く話です。

 

 

 

 


 

私は多くの人は、英語圏に住めば英語が話せるようになるというのは、ただ単に外国語の発達の仕方を知らないから

 

『現地の言葉に触れているだけで自然に吸収する』

 

と勘違いしているのではないかと思います。

 

だから、こう考える人の中に、第3言語を学ぶ人はいないとも思います。現地でいくらその国の言葉に触れようとも、自分の中にそれを形にする基礎がなくてはまるでスポンジの上に鉄筋の建物を建てるようなものだと思うからです。

 

私はすでに第二言語として英語を学んだので、中国語で『中国語圏に住めば、そして長く住めば(自然に)上手になる』とは悲しいほどに思えません(苦笑)。

 

現地に住んでも話せない人がたくさんいるのも有名な話ですよね。留学しても必ずしも話せるようにはならないのと同じで。

 

でもこれらの情報は、私が英語を真面目に勉強しようと思わなかったら、英語とは関係ない生活をしていたら知る由もなかったことでもあります。だからいかに多くの人がこういった事実を知らずにいるか…ということが想像できますね。

 

 

それでも、10歳を越えたら年齢はあまり関係ないというお話には勇気づけられます。

 

そんな私のもっぱらの課題は、英語も中国語も必要のないこの日本で、いかに気を散らさずに練習に没頭できるか、ということです。時間は有限だということをしみじみと感じる年代になってきましたので一層シビアにならなくては!と思っています。

 

 



 

 

 

 

…とあれこれ自分の意見をお伝えしておりますが、Yoichiさんの方が正確な情報をご存知だと思うので、そもそも私が意見を述べるなんてことはとてもおこがましいことなのでしょうが…

 

(そして、さらっと済まそうと思ったのにやっぱりどーっと書いてしまった…)

 

実際、これらすべては私自身が体験して得た感触であり(他人の情報を  コ  ピ  ペ  しているのではないという意味です)、私自身が英語を始めたばかりの頃にはまったく想像もできなかったことでした。こんな世界があるのすら知る由もありませんでした。

 

 

そして外国語を学ぶことがなければ、日本語の特質、例えばYoichiさんがおっしゃっていた、日本語は助詞により何のことを言っているかが明確なので(~『が』、~『に』、~『を』)、語順を気にすることなく使える便利な言語ということも身を持って感じることはなかったと思います。

 

 

そういう意味においても、大人になってからの外国語学習は、大変な分、得るものもあって面白いなぁと思う次第です。

 

 

そして私が尊敬するブログ集客の先生も、ブログで専門的な話は専門家に任せて、自分は自分の体験、自分だからこそ書けることを書けばよいと言っているように、私は私にしか書けない、自分の考えをこのブログに記そうと思う次第です。

 

そうです、決して他人の専門知識の パ ク リ ではないということです(笑)。

 

 

 

 

おっと!私も話し出すと長くなってしまうので(笑)、これから中国語の修業に出ます。

 

Yoichiさんの真摯なコメントとても刺激を受け、考える機会をいただきました。

 

今回もものすごく考えました(笑)。

 

真面目に話してくださり、本当に嬉しかったです。

 

そしてご自身の興味のあることに純粋に向かわれ実行に移しているYoichiさんの生き方、本当にステキです。

 

私も見習います!

 

ありがとうございました!

 

また何かあったらいつでも近況聞かせてください(^_^)/

 

 

 

 

 

※ここ最近コメント欄に、英語業界によくイチャモン付けに出現し持論を展開しついでに売名行為をする悪質なあの『英語サイト荒らしサイコパス老害』が頻出ているのでしばらくコメント欄をしめています。

 

(私はネット上において名指しで誹謗中傷されていますので、今後法的手段も検討しています)

 

何かあった際には問い合わせよりお願い致します。